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和協会のこと
従業員への報恩から
好不況にかわらぬ待遇を
私はいつも従業員に感謝している。なんとか日ごろの労苦にこたえねばならない。丸善石油は、社長以下全員が同じ月給取りだ。月給取りにとっていちばん心配なことは、自分が死んだらどうなるか。自分が病気になったらどうするか、会社をやめたあとどうしていくか、の三つだとおもう。この三つの心配がなくなったら、私たちサラリーマンの生活はどんなに明るく楽しいものになるかしれない。またそうなれば、いきおい後顧の憂いなく仕事にも専念できる。
家庭には子供もいよう。人の子の親として、だれしも子供には十分の教育を受けさせ、できれば大学に進学させたいとねがうのが人情というものだ。しかし、それが勤務地のつごうや収入の点などで、どうしてもできないこともあろう。そんなときに、親としてどんなにせつなくかなしいことだろう。もしここに、奨学金を出してやったり、必要な都市に学生寮を設けて勉学の便をはかってやったりすることができたら、親たちも子供たちもさぞかしよろこぶことだろう。また、優秀な社員をどしどし海外に出して、広く知識を世界に求めさせるようにできたら、会社にとっても日本にとってもきっと大きなプラスになるにちがいない。
なんとかしたいという願望と、やればできるという確信のもとに、私はいろいろと実行方法を研究した。最初は共済会のやり方について調べてみたが、どうも既存の共済会ではどっかもの足りない。もっと幅もあれば深みもあるものができないものかと、社内の幹部諸君ともじっくり相談した。
こういう経過をたどって昭和30年4月1日、ここにいう「丸善石油和協会」が発足した。私が名誉会長になり、当時の常務(現専務)小坂英勝君が会長になってスタートしたのである。この会は一見共済会に似ているようだが、厳密にいって性格その他でちがう要素もあるところから、単に「和協会」と名づけることとした。
役員、従業員の全員が会員だが、もちろん会員からは一銭の会費ももらわない。もともとこの和協会は、いわば私の従業員にたいする“報恩”の心からつくられたものだからである。私はかねがね「和の団結」こそ丸善の精神だと説いてきたが、従業員諸君はその私の指揮下に、よくここまでやってきてくれた。それを思うと、社長としての私は、単に口先だけでなしに、当然なにかをもって報いなければならない。そういう考えのもとに、この和協会は生まれたのである。
この会の設立には、またこういう重要な意味もある。
いま会社は順調に発展しているけれども、経済界というものは客観情勢の急変で、いつなんどき不可抗力な事態にまき込まれないともかぎらない。だが、かりにそんなことになったとしても、不況のシワよせをすぐ従業員の待遇にもっていくようなことをしたくない。よしんばどんな事態が生じてもできるだけ和協会の手で吸収し、従業員には好況時も不況時も変わらぬ待遇を持続していきたいというのも、そのねらいの一つなのである。
会社から出す基金にもおのずから限度があるので、理想的活動は今後にまたねばならないが、どうせやったからには、この会も日本一の充実したものにしたいと思っている。