
13
社長就任
病床の身で引き受ける
孤立無援、いつもひとり歩き
それはそうと、私の突然の発病には会社もまいったらしい。なにしろその時分は、なにからなにまでほとんど私が仕切っていたのだから、おもえば無理もない。
熱海の病院に2ヵ月入院し、それから自宅に帰ったわけだが、動けないから寝たっきりで過ごしていた。するとそこへ、毎日のように社員連中が押しかけてきて、「岡崎さんもやめるといっているし、ぜひ社長になってくれ」と言ってきかない。
そこで私は何回も「君たちは社長というものをなんと心得ているかしらないが、だれでもできると思ったら大間違いだ。ことに、半分つぶれかかっている会社を引き受けて、それをよくしていこうというのには、たいへんな努力がいる。だいいち重労働だ。そんなことが、この半身不随のからだでできるはずがない。丸善石油はかわいいし、その前途は気になるが、からだが動かないではどうしようもないから勘弁してほしい」と断わりつづけた。
そのうち、当時三和銀行の専務をしていた河村良介さんなどもこられて「寝ていてもいい。名前だけでいいから、とにかく社長になってくれ」という話をもちこんできた。そうなると私も考えざるをえない。丸善石油では私はいちばん古いし、それに会社が困っているときだからできればなんとか力になってやりたいのだが、なにぶんにも病気には勝てない。それで断わってきたわけだが、銀行にまでそういわれるくらいならと、意を決して立ち上がることにした。こうして私は、27年10月28日、社長に就任した。
そのころの私は、右手はどうやら使えたが、左手のほうはまるっきり動かない状態で、なにをするにも家内の肩を借りていた。こんなからだになってまでも社長になるなんていう人間はおそらく一万人に一人もいないだろう。普通なら、職についていても病気になれば退くのがあたりまえだ。それを、病気になってから社長に就任したんだから異例中の異例といえる。しかもそれから8年も9年もの間、健康人以上に働いてこられたということは、まったく感謝のきわみである。
さて社長になってはみたものの、私はまったくの一本立ちであった。私には学閥も門閥もない。いなかからのぽっと出で満州などですごしたのだから、金融界や官界にも知己はない。私をバックしてくれるものはだれもいあなかった。しかたがないから、私はいつもひとりで歩いてきた。政界には分相応に政治献金もしているが、だからといって「ああしてくれ、こうしてほしい」とたのんだことはない。そんなことで、私は孤立無援、きれいに生きてきたと自負している。
深慮とか熟考とかいうことばがあるが、どんなに考えても人間の頭には限度がある。数字を集計したりするような仕事は別だが、会社の経営方針などは家で静かに考えてみたところでいい案が浮かぶはずもないし、まして温泉へでも行ってじっくりとなんていうのはまちがいだ。名案や妙案というものは、日ごろ仕事に忙殺されているあいだに生まれるものだと私は思っている。ながい私の経験からいって、人間の頭というやつは、真剣に仕事と取っ組んでいるときがいちばん回転が早いようだ。
そう信じているから、私はどんな大きな仕事でも、ものの一時間も考えたことがなく、いつでも即決主義でやっている。しかもそれで、少なくともいままでは一つも間違いをおこしたことがない。