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宇宙殿
過労がたたって入院
再起はすべて神仏の加護
丸善石油にもどってから、私は営業部長兼大阪支店長となり、ついでその年の12月、営業部門担当の常務になった。
当時の銀行は石油産業の重要性に対する認識がなく、とかく金を出し渋った。そこで主要会社のほとんどが外資と手をにぎったのである。丸善石油もご多聞にもれず、金融難でへとへとになっていたから、高橋社長も外資提携に傾いて、問題はしばしば重役会議の議題になったが、そのつど私はこれに反対した。別に他意があったわけではないが、日本の会社は純粋に日本の人の手にあるべきだとおもったからだ。そこでしまいには「君はなんでも反対するが、金がなくては再開はできんぞ」というから「努力しだいで必ずできる」といってやった。「それでは君がやってみろ」ということになって、そこからまた新しい苦労がはじまった。
販売の仕事のほかに、事実上、経理部長の役割まで果たさねばならなかった。やがて高橋社長が退陣して岡崎嘉平太氏の時代がきても、私の苦労は軽減しなかった。心身ともに私はすっかりへばっていたらしい。昭和27年5月18日、会社の旅行会に参加した私は、熱海(伊豆山)の水明館で意識を失って国立病院にはいった。
その前年の秋に、私は専務になっていた。やせてもかれても専務である。その私が会社からもらった見舞い金は1万円であった。しかたがないので、家内があれを売ったりこれを売ったりでどうやら入院費をまかなった。まさに不幸のどん底といってよかったが、そのどん底にあって、私は人の心の美しさとあたたかさを知った。全国の友人知己が、和田をもういっぺん働けるからだにしたいと各地の神仏に祈願し、そのお札をおくってくれた。病室を埋めるほどおくられたお札を見ながら、私は友情のあつきに泣いた。
おかげでいのちびろいをし、どうやら一人前に働けるようになったが、考えてみれば、それもこれも一に神仏の加護のたまものだ。この際お札を下さった全国の神社仏閣にお礼に行こうと思い立ったが、半身不随のかなしさで実行はとてもおぼつかない。そこで庭のすみに社を建て、お札を全部そこにおさめて朝夕おまいりしようと考え、ある日家内に相談した。そのときの家内の意見は、大体こういうことであった。
−それもいいが、生きていることのよろこびと、それに対する感謝の気持ちは私たち二人だけのものではない。そういうふうに考えたら小さくなる。生きとし生けるものの今日あるは、すべて天の大愛と宇宙諸霊の加護のたまものだ。お互いにそれを悟れば、個人的にはほんとうの幸福、世界的にはほんとうの平和がやってくるのではないか−。
いわれてみれば、たしかにそうだ。そこで昭和33年、あとに出てくる丸善石油学院と道一つへだてた大阪府箕面市新稲に「宇宙の宮」の建立となったのである。建造物の中心は“宇宙殿”で、発案者のまき子が宮主(みやしろ)になっている。
ただ、くれぐれもことわっておくが、これは宗教ではない。しいていえば、愛を誓い、感謝の意をささげる場所であり、疲れたたましいのいこいの場所である。