−丸善石油学院について−

山本 續
近畿大学教養部

近畿大学教育研究紀要 第11号より
1987年1月発行 別刷


目次をクリックすると、各項目にジャンプします。

1.緒 言
2.和田完二の世界観
3.学院設立の経緯
4.学院運営の経過
5.学院の閉鎖
6.結 言

1.緒 言

 1945年日本の敗戦によって第二次世界大戦は終止符をうって、占領軍によってわが国の工業生産活動は全面的に停止させられたが、食糧増産の必要性からまず肥料生産、石炭生産が稼動を始めることになり、ついで外貨獲得の手段としての繊維製品生産を促進して日本の経済的自立性を高めることによって占領政策遂行上の経済負担の軽減を図ることになった。
 1950年6月勃発した朝鮮戦争は膨大な軍需物資の補給を必要としたが、これらの物資をアメリカ本国から直接連絡輸送する不便を解消すべく日本においてそれらの物資の調達を企図することになって、ここにわが国の産業が期せずして復活再建さることになったのであった。
 上述の占領軍政策の一環として敗戦後の太平洋沿岸製油所の操業停止命令が解除され、占領軍の許可のもとに原油の輸入が認められ、石油会社の製油所が一斉に操業を開始し、1950年には日本石油、東亜燃料、昭和石油、丸善石油、興亜石油、三菱石油及び大協石油の7社に対し、計33,000バーレル/日の原油の割当が行われた。ここに石油各会社はそれぞれ資本の大幅増資を行い、また外国石油会社と提携して新技術を導入し、新処理施設の建設拡張に狂奔するもとになった。
 当時石油企業にとって設備拡充及び新技術導入については資金についで不足を感じていたものは技術系従業員であった。
 1948年4月新制高等学校の発足をみたが、当時義務教育優先のために戦災にあって校舎の不足をかこっていた都会地区では旧制中学校、女学校、工業学校等の校舎は主として新制中学校に転用され、僅かに残された後者を普通科高等学校と工業高等学校等とが共同使用をするという現象も見られ、とくに工業科の場合実験実習施設設備は戦争中に徴用又は転用され、或いは老朽化して殆ど使用できない状況下におかれ、また新制工業高等学校の学科編成もきわめて旧態依然たるものであり、このような学校を卒業した工業科出身者は企業において直接役に立たず企業内での再教育が必要であるという声が聞かれる状態であった。
 このような情勢下で石油化学系の当時の先端技術産業においては、技術革新の最中の技術面における著しい進歩に適応しうるような専門的かつ実務的教育を施す学科をもつ学校がないために化学系又は機械系の出身者を採用し企業の内で職場の実態に即した特殊技術教育を相当期間実施せざるをえない状態におかれたいた。
 昭和30年台においては公立の学校教育にその初級技術者の養成を期待することができないとし、関西地区においては全日制の公募形式(中学校卒業を入学資格とする)の企業内学校の設立があいついだのであった。学校教育法第83条にもとずく各種学校として丸善石油学院(発足当時は丸善石油高等工学院と称したが、昭和35年4月専門部と併設することにより丸善石油学院と改称した。昭和32年4月設立)、松下電器工学院(昭和35年5月設立)、積水化学高等工学院(昭和36年4月設立)、また学校法人(学校教育法第1条)としては大阪繊維工業高等学校(昭和37年4月設立、昭和49年4月摂陵高等学校と改称)が誕生したのであった。
 これらの学校のうち大阪繊維工業高等学校を除いてはいずれも数年の間に相ついで閉鎖され企業における技術者養成の難しさを証明したのであった。
 丸善石油学院は発足以来高等部4回、専門部2回の卒業生を企業に送り込み、技術革新に順応させるのに大いに役立てたが、昭和37年学院創立5周年記念行事を盛大に挙行した直後、丸善石油の経営陣の更迭によって、創始者及び理事のすべてを失い、翌昭和38年3月(ただし高等部在籍の25名は昭和39年3月)に教育事業を中止せざるを得ない状態に立ちいたったのであった。
 これらの学院で教育された初級、中級技術者が企業内においてまだ十分に評価を受けるにいたらず、教育の成果も確認されることもなく、ただ経済的事由のみによって学院の活動が停止されたのであった。
 この学院が目ざした技術者養成の意義を検討して今後のわが国の工業教育の参考に資するため大阪繊維工業高等学校に引きつづいて丸善石油の調査研究をした。
 学校教育法第83条の各種学校として昭和30年代の企業内教育の先陣をきった丸善石油学院について調査した結果を報告したい。
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2.和田完二の世界観
 一時石油界の鬼と云われた和田完二は明治29年の生れで昭和5年丸善礦油合資会社(丸善石油株式会社の前身)に入社して石油業界に身を投じ昭和27年10月社長に就任して経営の偉才ぶりを発揮したのであった。
 これより先専務のときの昭和27年5月熱海において発病し半身不随ながらも奇跡的に再起することができて天の大愛と宇宙諸霊の加護の賜物であるという人生観を得て、いわゆる宗教的活動ではなく宇宙に対する感謝をし、かつ精神的やすらぎをうる場所として昭和33年に宇宙の宮を設立することになり、その人生観を広く社会に知らせたいと考えたのであった。
 この宇宙の宮の施設は丸善石油学院が閉鎖した後もそのまま置かれていたが、和田完二の死後宮主の社長夫人和田まき子の手によって箱根千石原に移され、宗教法人宇宙の宮として現在も存続している。学院施設も取りこわされて石油学院を記念すべきものは箕面の地から全く姿を消してしまったが、この宇宙の宮だけが和田完二の業績をしのぶ唯一のものになったのである。
 前述のように丸善石油は昭和25年4月にユニオン石油の技術援助を受けて下津製油所(和歌山)の操業を開始し、さらに昭和27年4月松山製油所(愛媛)の操業を開始し石油精製の拡大を図りつつあった。
 戦後の石油精製工場は分析機器の発達と自動制御装置の普及によって比較的少数の人員で運転できるようになってはきたが、なお研究部門、販売部門等では多くの人手が必要とされていた。当時業務拡張によって有能な人材を獲得する必要があったが、前述のように当時の工業高等学校の卒業生を採用して企業内でオペレータとして役立たせるための教育には数年を要する状況であり、これが業務拡大の一つの隘路となっていたのであった。
 和田完二は当時の学校教育の状況(表1、表2、表3)では少なくとも高等学校レベルでの石油部門専攻の卒業生を得ることは望み難いので化学系又は機械系の卒業生を採用して社内で教育せねばならないのであれば初めから石油専門の学校をつくってそこで石油について充分教育することができるようにすることにより入社と同時にオペレータとして活躍することができるであろうから教育に若干の経費を投じたとしても充分に採算がとれるであろうと判断して石油業界の他社に先んじて優位を確立するため自社の負担においてそのような学校を設立することがやがて社運を隆盛に導くであろうと考えたのであった。
 1300年の昔白雉年間役の小角が開基したといわれる箕面の地(古くは蓑尾又は箕尾といった)は古来紅葉の名所として知られていたが、昭和31年の夏当時の愛媛県の久松知事からその箕面に約50,000uの土地の処理を依頼されたので、この土地はもとより滝あり、紅葉あり、清流あり、野猿ありまた植物や昆虫の宝庫であり、清流の河鹿の鳴声は天下一の折紙がつけられていたという極めてめぐまれた環境であって会社社宅や社員寮として利用するよりはむしろ学校施設とした方がよいのではないかと判断されたようであった。
 当時高等学校の進学率は50%を越えた程度であり、なお優秀な能力をもちながら主として経済的理由のために高等学校進学を断念している者が特に地方に多くあったと思われた。このような少年たちに進学と同時に就職の機会を与えることは本人にとっても、またその家族にとっても都合のよいことであり、いわゆる社会福祉に役立つ事業であり企業にとっても若年の有能な初級技術者を得ることにもなって一石二鳥の企画であろうと考えた。
 もっとも卒業後の進路を拘束するのではなく本人の選択に委ねるとし(実際には全員丸善石油に入社した)、自社のみの利益を追求するものではないとし、企業は社会と共存すべきものであって企業が利潤を得るのは社会のお蔭であるのでその利潤の一部を社会に還元すべきであるという信念が当時の教育界の実情を黙視し難いとして学院設立にふみ切らせたものと思われる。
 前述のように着想から開校まで1年足らずという急速なテンポで進められて、とりあえず学校教育法第83条の各種学校として開校することとしたものの将来は学校法人として石油工業高等学校に改組し、さらに石油総合大学を設置するという構想をもっていた。もっとも急激な経済界の変動によって約8年の後に和田完二は社長を退き、学院も閉鎖のやむなきに至ったが、もし学校法人に改組されていたとすれば大阪繊維工業高等学校が摂陵高等学校に転進して存続し得たように或いは存続しえて和田完二の世界観を引きつぐユニークな存在たりえたであろうと思われるが、会社の再建と運命をともにして廃止された学院に対して和田完二には痛恨の想いが残されていたにちがいない。
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3.学院設立の経緯
 明治初年外国の文物を導入するのに性急であって古来の東洋思想あるいは東洋的人間形成を一擲して西欧の唯物主義的、実利主義的教育に移ったのは敗戦によって強制的にヨーロッパ系教育制度からアメリカ系教育制度に移行させられたのとは異なった意味で、大いなる誤であったと思われる。それでも旧制高等学校に残されていた寮制度はかつての塾の雰囲気を承継し学校自治、自主の精神を培うのに大いに役立ったものと思われる。占領軍の政策によって公立学校における寮制度は廃止されたが、前報(参考文献1)で報告したように私立の大阪繊維工業高等学校においては人間的なあたたかさ、友愛と他人と協同することによる品性の陶冶、生活の中での人間性の陶冶は寮生活の24時間教育においてのみ実現しうると考えて全寮制を実施したといわれる。
 丸善石油学院の場合も日本古来の塾教育の流れを汲むべきであろうとして緒方洪庵の適塾(適々斎塾)、吉田松陰の松下村塾及び広瀬淡窓の咸宜園塾にその教育の原点を求めて検討した結果、淡窓の「道うを休めよ他郷苦辛多しと、同胞友あり自ら相親しむ、柴扉暁に出づれば霜雪の如し、君は川流を汲め我は薪を拾わん」の詩に示すところに精神的基盤を求めて全寮制(専門部の一部を除く)を採用することとしたのであった。
 教育目標として
 1. 社会的道義を基調とし、心身ともに強靭な石油産業人を育成すること、
 2. 石油に関する専門知識と技能を養成すること、
 3. 新制高等学校(専門部においては短期大学)と同程度の一般的教養を付与すること、
 4. 個性の伸長と進取的気性を培養すること、
 5. 豊かな情操、高潔な人格を育成すること、
 を掲げて、具体的方針として
 1.生徒は全員給費制とし、衣食住、勉学に要する費用をおおむね給付する、
 2.起居をともにし、人格の相互陶冶をするため全員寮生活をさせる、
 3.修業年限を2年とし、本人が志望して会社が認めた場合、優先的に採用をし待遇を高等学校卒業生に準ずるとした。
 各種学校の立場上教師の選択の自由度が大きいので大部分を丸善石油の社員の中から選定したのは丸善石油という社風を体得させるのに好都合であったことがその主たる理由であったと思われる。
 当時工業高等学校においては昭和31年度学習指導要領によれば週37時間(地区別教育活動を含む)、年35週という標準の教育課程が実施されていたが、丸善石油学院においては年間の休暇を減らし(夏季20日、冬季10日、春季8日計38日とする)年46週とし、週39時間で運営し、また課目を重点的選定することもできて、十分の素質のある生徒を入学させることでもあり、有能な教師を配することによって2年間でゆうに公立学校の3年分の内容を仕上げることは不可能でないと考えて修業年限を2年と設定したようである。
 前述のように専門的技術教育の必要という現実の要請と企業経営理念とが合致するとして学院を設定することの決定が昭和31年12月に下され、具体的開校の手続きが翌昭和32年1月、仮校舎建築着手が同年2月、同年4月8日開校(第一期生51名入学)したという正に一潟千里ともいうべき手順によって丸善石油高等工学院が誕生したのであった。
 最初は都道府県教育委員会を通じて出身中学校長の推薦という形式で公募し、全国から約700名の応募があり、書類選考、学力テスト(国語、英語、数学、社会、理科の5科目)、予備面接及び大阪本社における面接、健康診断という手順をへて51名の採用を決定した。
 当初は30名程度を採用する予定であったようであるが、応募状況から判断して20名の追加採用をしたものと思われる。
 社長和田完二を学院長とし数名の専任教員のもとに大いなる夢と希望に胸をふくらませて昭和32年4月花々しく門出をしたのであった。
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4.学院運営の経過
 山紫水明の地、大阪府箕面市南西の丘に当時約3億円の巨費を投じて設立された丸善石油高等工学院はその運営方針として第一には理工系の学校ではあるがその豊かな個性的能力を開発させるために理工系の基礎科目、応用科目、石油に関する専門科目は当然のことであるが国語、社会などの人文系科目や音楽、美術などの芸術系科目にも重点をおくことにした。(表4)
 なお昭和35年4月から校名を丸善石油学院と改称し、新に短期大学程度の専門部を併設することとし高等部と専門部の二系列に拡張し、専門部は石油学科の短期大学程度の専門教育を行なうこととし、化学科と機械科とに分けた。(表5、表6)
 専門部入学者は高等部卒業生又は社内の希望者から選抜することとし、高等部出身者は引きつづき寮生活を継続することとしたが社内からの入学者は通学制とした。
 このように専門部の学生について寮生と通学生に区別したのは社内からの入学者はいずれも社員としての身分を有し会社から給与を受けていたので給費生と分ける必要があったものと思われる。
 その2は寮生活による人間の陶冶である。現代の青年の考え方は
 1.外部からの強制に反撥しやすい。
 2.事象を批判的に観察する。
 3.自己主張を優先させる。
 4.自由に強いあこがれを持つ。
 5.縦より横の人間関係を重要視する。
 というところに特徴があるといわれている。
 この情緒が不安定で、悩みや葛藤のたえない青年について寮生活において友愛協同の精神を培い、分担、自治の塾風を養うことによって人格の形成が可能となり、将来の会社の中堅として活躍しうる素地を作ることになるものと考えられた。
 そのため日課が定められ(表7)、朝は太鼓、夕は月星殿鐘楼の鐘で時刻が告げられることになっており、寮の自治は室長(1室4名6名)、寮直の協同作業によって運営され食事当番、入浴当番等は淡窓の咸宜園精神にもとづいて実施された。また寮の年間行事(表8)も寮直会議で企画され実施された。
 その3は給費制度による劣等感や甘えの考えを無くするために額に汗をするという訓練としての労作たとえば寮舎、校舎の清掃、芝生、庭木の手入れ、食事または入浴当番、工作営繕等のそれぞれの特技を生かし教育共同体に寄与することであった。
 寮の軒下には百丈禅師の「一日不作、一日不食」の書が掲げられており学習、生活の道場としての学寮のきびしい鉄則を明示していたのであった。
 その4は人間性の開発、創造性の伸長についてたとえば教科の中の音楽、美術が生活の中に浸透していき生徒の作詩、作曲活動や絵画、演劇の活動に発展させ、また体育又は文化クラブへの全員参加によって価値創造と芸術性のあるユートピアを形成することであった。
 その5は教育と特定の既存宗教とかかわり合わないところの宗教的情操とを結合させることであった。淡窓の「敬天愛人」の趣旨を体し、礼拝堂における瞑想又は坐禅堂における坐禅を実施することによって軽薄な実利的な一般的学校教育の流れに追従し阿ねることなく、日本古来の教育の伝統たる塾精神にのっとり師弟同行の教育を標榜したことであった。
 学院内に設けられた宇宙の宮は前述のように汎神教の礼拝堂ともいうべきものであって特定の宗教教義にとらわれることなく、また特定の祭神を持つこともないものであり、社長夫人まき子が私財を投じて昭和33年1月に設立したものであり、毎月8日に例祭を行っていた。学院の生徒はその地下の広間で志保見道雲師の指導のもとに坐禅の修行をしたのであった。
 しかし、これは特定の宗教活動を強要したものではなく、あくまで人格陶冶の一手段として行われたものであったところに学院の教育方針をうかがい知ることができる。
 商工業都市大阪の北方約20kmの風光明媚で閑静な新稲と呼ばれる山麓台地で、東に箕面川、南は北摂の平野、西は森林丘陵地、北は箕面山系を控える高燥景雅の地に建設された丸善石油学院は広大なグラウンド、寮舎、校舎からなり(表9)、校舎には教室、実験室、実習室、音楽室、図書室などを含み、寮舎は二棟(箕鷹寮、第二箕鷹寮)45室、食堂、浴室、談話室等を有していた。
 完成時の定員は高等部200名、専門部100名で高等部生徒全員と高等部から直接専門部へ進学した者の全員は給費制とし、会社入社後、休職扱いとして専門部に入学した者は変形給費制としていた。
 衣食住の全額、教科書の給付、医療補償の他に高等部生には毎月2,000円、専門部生には毎月3,000円の教育費が支給されていたので、父兄の経済的負担は皆無であった。
 会社に勤務していた者で専門部に入学した場合は入学式の日から休職扱いとなり以後基準賃金、賞与が支給されていたので、毎月テキスト代として1,500円を納付させる仕組みになっており、自宅又は下宿から通学する方法をとっていた。なお高等部から引きつづき直接専門部に進学した者はその後も寮生活を続けることになっていた。
 この学院の教育の特色の一つとしては前述のように特に専門学科の学習のみに重点をおくことなく、教育の源泉ともいうべき2000年昔のアテネの森の中での哲学者たちの講筵の流れを汲んで講座教育を実施したことであろう。
 倫理、哲学、宗教、文芸、科学、時局等の諸分野にわたり著名人である中曽根康弘、石丸梧平、今東光、志保見道雲、石原慎太郎、佐藤正典、郷峰保、佐藤正忠らの人々の風貌に接し、その話を直接聞くことができたことは学院生徒の人間形成に大いに役立ったものと思われる。
 生徒が自発的に行なう活動として高等部には生徒会、専門部には学生会という自主的組織があり、その活動は特別活動として(教育課程表には明示されていないが)学院の教育の重要な一環をなしていた。体育、文化クラブ活動は生徒会、学生会のもっとも活気のある活動の舞台であり、高等部は入学と同時に体育、文化クラブのいずれか一つを選択することになっており(表10)、専門部は自由加入となっていた。
 教育のスケジュールは前期(4月〜9月)、後期(10月〜3月)の2期制とし、高等部2年においては7月及び11月の2回にわたり延4週の工場実習を課することになっていた。
 高等部の入学者は、丸善石油の製油所のある和歌山県と愛媛県の出身者が断然多く、ついで近畿地区及びその近傍の兵庫県、大阪府、岡山県が多く、これに対し岩手、宮城、栃木、茨城、埼玉、神奈川、富山、山梨、岐阜、愛知、石川、鳥取、長崎、熊本、宮崎及び鹿児島県の出身者は皆無であったのは丸善石油の知名度によるものと思われ、平均の入学競争率は大体15倍程度であった。
 このように最良の環境の下に最良の教師陣によって行なわれた丸善石油の初級技術者養成の計画は当時の教育界においては異色のある稀少価値のある存在として注目をあび、文教関係の学界、政界はいうに及ばず、マスコミ関係の見学者、視察者が相ついだ。
 ペスタロッチは「学校は見学者が増えると教育は堕落する」と戒めたと云われるが、この言はかつての6年制工業高等学校の試行として当時注目をあびた東京都立世田谷工業高等学校付属中学校の経緯にもあてはめられるように思われる。もっともこの場合は教育の堕落というよりは教育行政の無理解と社会情勢の変化が試行中止の不可抗力的原因となったものと思われる。(参考文献2、3)。
 丸善石油学院の関係者はそのペスタロッチの言を胸に秘め、深く自戒して運営に当られたのであったが、全く予期せざる理由によって運営を中止するのやむをえなきに至ったことはさぞ無念なことであったと思われる。
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5.学院の閉鎖
 昭和37年4月高等部第6期生100名、専門部第3期生50名入学し、総勢300名、教員は院長以下55名、職員32名の計87名の陣容を誇る全盛期を迎えたと思われていたが、わが国石油工業界のトップレベルを目指していた丸善石油が設立した丸善石油学院は突如として母体会社の経営問題に火がついてその存続がにわかに怪しくなってきたのであった。
 その間高等部卒業生287名、専門部卒業生80名はそれぞれ丸善石油本社、支社、中央研究所、下津製油所、松山製油所、大阪製油所等に配属されて(表11)、中堅技術者としての活躍を期待されていたが、国際的石油業界とくに中近東の産油国の事情の変化により、大協石油、出光興産とともにいわゆる民族資本の石油会社3社として約25%のシェアを有し堅実な経済活動をしていたところ、自由化によって、にわかに国際石油資本の圧力が加わり、丸善石油は急激に業績が悪化するという事態を招き約55億円という大幅な赤字を計上したため取引銀行とくに三和銀行から放漫経営の責任を追求されて学院創始者和田完二は副社長杉本茂らとともに責任をとらざるをえなくなり、創始者、理事を失った学院はその輝かしい業績にもかかわらず俎上の鯉となったのであった。
 社長和田完二は関西電力の太田垣氏のすすめで代表権を有する会長となるべきところ、最高顧問に祭りあげられ全く手足をもがれて失意のうちに数年の後に他界したのであった。
 学院は開校5周年記念祭を盛大に挙行した直後まさに晴天の霹靂ともいうべき経営陣の一新によってせっかく企業の技術陣の充足という重大使命を持ち企業業績拡大に貢献してきた学院は財政再建のための緊縮予算の名のもとに創始者及び理事の手から離され、当時約500万円の経費を投入されていた学院の維持を打ち切る決定がなされるに至った。
 結局同じような経過をたどって前後して設立された学校教育法第83条の各種学校たる積水化学高等工学院、松下電器工学院とともにその名を消すことになったのであった。これは大阪繊維工業高等学校も同様の経営の危機に直面しながらも学校法人であったこと及び単独企業の設立ではなかったことが幸いして普通科高等学校に転換して存続しえたのと好対照をなすものであろう。
 丸善石油学院が25名の卒業生を最後に昭和39年3月、8年の短い生涯を終えたとき、和田完二はその施設を受けて学校法人石油工業高等学校として再発足させるべく不自由な身に鞭うって関係官庁に接触していたが、丸善石油再建五人委員会及び銀行によって学院の施設を箕面市に約5億円で売却して赤字の補填するという決定がなされた。羽振りのよい時に取り巻いていた人々も遠ざかって全く孤立無援となった和田完二はそのささやかな希望を支持する人もなくなって学院継続の夢を断念せざるをえなくなったのであった。
 学院閉鎖決定した時在校生の身の振り方が学院当局の緊要の課題として残され、高等部1年は終了時(昭和38年3月)に公立学校2学年編入、2年は3学年編入されるように奔走することになったが、専門部は企業の出身者(高等部卒業生はまだ社員の身分を存していなかったがその数も多くなかったので会社が社員として採用したと思われる)であったので2年卒業生のみならず1年修了者も全員会社に復帰する措置をとったのであった。(表12)
 その結果昭和36年度入学者(昭和38年3月高等部卒業)のうち60名は他の石油関係会社に就職を斡旋し、公私立学校第3学年に38名が編入学し、また昭和37年度入学者のうち75名は1年終了で公私立学校の第2学年へ編入学し、25名だけが学院生活を続けることを希望したのでさらに1年間教育を続けて昭和39年3月に高等部を卒業させて石油関係の他社に就職を斡旋した。
 わずか8年の短期間の間に技術革新の第一次の波の通り過ぎた後の経済変動の影響をまともに受けて企業経営がデッドロックに乗り上げ、そのあおりを受けてせっかく広瀬淡窓の理想を再現すべく企画された全寮制の丸善石油学院は関係者の多大の努力にもかかわらず挫折のやむなきに至ったのであった。
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6.結   言
 昭和32年12月「長期経済計画」の閣議決定及び昭和35年12月「国民所得倍増計画」の閣議決定によって昭和35年から10年間に科学技術者の不足数は17万人、同じく5年間に工業高等学校卒業生44万人不足するという前提にたって定員増加が実施されることになったが、この数字がいかなる根拠にもとづいてどのようにして算出されたかは明らかでない。また経済審議会は昭和35年に今後10年間に第一次産業人口が40%から24%へ、第二次産業人口が24%から32%へ、第三次産業人口が36%から44%になるものとの予測をたてていた。
 このような趨勢のもとで当時の先端技術である石油化学、プラスティック、エレクトロニクス等の関連企業はその当時の学校教育の実情から察して自社に必要とする技術者の充足は公立の学校教育に期待することはできないであろうと考え、社内で充足する方針を固めるようになったと思われる。
 昭和36年4月には日本経営者団体連盟が行なった企業における学校についてのアンケート調査の結果によると回答企業38社、各種団体5団体計43社で、学校数は延51校(1企業で2以上の学校を有する場合もある)であった。これらのうち工業高等学校水準を目的とするものは前述の各種学校(学校教育法第38条)の丸善石油高等工学院と積水化学高等工学院の2校であり、学校法人(学校教育法第1条)によるものは静清工業高等学校、スタンダード高等学校、大同工業高等学校、麻生塾工業高等学校、備南高等学校、不二越工業高等学校、三和高等学校、南海高等学校、印刷工芸高等学校、松尾鉱山高等学校、神岡鉱山高等学校、石川島工業高等学校及び大阪繊維工業高等学校の13校であった。
 これらの学校法人のうち公募方式の全日制課程は麻生塾工業高等学校(麻生産業、昭和23年3月設立)と大阪繊維工業高等学校の2校のみであり、いわゆる技術革新の波にのって設立されたのは大阪繊維工業高等学校のみであった。
 なお前述の51校の中には短期大学程度の学校(たとえば丸善石油学院専門部)が15校含まれており、これらの大部分は昭和30年代後半の技術革新のただ中に設立されたものであった。
 このように企業がそれぞれ自社に必要な初級及び中級技術者の養成を企図したのは前述の閣議決定にみるような技術者の絶対数の不足に対する対抗策であったと思われるが、現実には技術者の量よりはむしろその質に問題があって学校教育に期待できないと判断したものと思われる。
 昭和20年代の後半にわが国の工業の復興が順調に進み、戦中の技術的空白を埋めるために競って技術導入を図って生産工程の近代化につとめたが、当時の工業高等学校の卒業生の資質が極めて低く現場作業には適しないと声が高まってきていた。
 これは一つは新制工業高等学校の3年間と旧制工業学校の5年間との教育の年月の差に原因していると思われるし、その2は戦争によって多くの学校の施設設備が老朽化または破壊され、その上義務教育優先のため新制中学校に施設、予算が優先されたため新制に移行した当時の工業高等学校ではまともな授業が成立しなかったことにも原因していたと思われる。しかしながら教育の保守性の故か昭和26年産業教育振興法が公布されて工業教育にてこ入れがされた後も旧態依然たる教育課程を墨守して技術革新の趨勢に眼をつぶっていた学校教育に対する企業側の不満が企業内技術者養成を促したものと思われる。
 丸善石油学院において実施された全寮制の教育についての高い評価がその後発足した国立工業高等専門学校の寮制度の施行を促したといわれている。丸善石油学院では1806年九州日田の地で広瀬淡窓が開いた咸宜園塾の流れを汲んで自治、友愛、相互啓発を身上として共同生活を通じて人間性の陶冶を図ったことは前述のようであるが、これに対し工業高等専門学校の寮制度は単なる形式を模倣したにすぎず、自由と放縦とを区別せず、規約に徒らに反対して秩序を維持しようとせずまた自己優先を主張して強調することを知らずという現代青年の気質を露骨に発揮するものを単に集団的に生活させるにすぎず人間性の陶冶には程遠いものがあると思われる。勿論寮制度には長所のみを有するものではないが情緒の安定していない時期の青少年の集団生活の指導には印度のタゴールが森の中の学園平和の家において実践したといわれる宗教的背景をもつ情操教育が必要であろうと思われるが現在の工業高等専門学校の寮にそのような要素が欠如しているようであり、寮の運営が必ずしも教育的であるとはいえないとの批判がなされている。
 丸善石油学院の卒業生は全寮制による淡窓の理想を追う教育を受け協調性や指導力がよく培われており現在では企業(昭和61年4月コスモ石油株式会社と改称)の中堅として各地で活躍しており、和田完二の世界観をも承継して企業繁栄に役立つ存在となっているものと思われる。
 資本主義経済機構の非情というべきか資本の力が技術や経営を支配下に収めたことによって和田完二の宏遠な理想にみじんの配慮することもなく数百名の有能な技術者を育成した学院を閉鎖してその施設を箕面市に譲渡して金銭的つじつまを合わせることにしたため学院のあとかたは全く無くなり、学院で教育を受けた人々を除いてはもはや丸善石油学院を想起させるものが何一つないということは教育の本質を追求した和田完二についての何のモニュメントも存在しなくなったということを意味するものであり、このように自社の運営に必要な有能な技術者を養成したという教育効果を具体的に評価することなく利潤追求の面のみを強調しすぎて人間形成を軽視する現代の経済機構が果して人間にとって幸いなことであるか否かは大きな問題を投げかけるものであろう。
 前述のように実利的、唯物論的教育観のみが支配的になっており、金融の力が技術、経営を傘下に収めている現代の資本主義社会において教育もそれに奉仕することを強要することとなり、ウシンスキーが100年も前に警告したように「単に技能、知識のみを与えるにすぎない教育は虚栄を高め、腐敗を増すにすぎない」であることを考えるならば、資本主義に支配されている社会では倫理、道徳が名目的にすぎないので学校における非行その他の諸問題を簡単に解決する方法は見出せないと思われる。
 教育の源泉に立ち帰って目前の些細な事象の解決策のみを討論するのではなく教育の本質を論ずべきであると考え、現在の資格認定期間にすぎないような学校教育に対し批判の一石を投じた丸善石油学院の運営に当られた方々に深甚の敬意を表したい。
 工業教育の体質改善のために試みられたこれらの企業内の技術者養成の教育は企業にとって直接利潤を産むものでないという考えの下に経済情勢の悪化に際しては真先に切り捨てられるという宿命をもち、経済変動の周期に従って比較的短期間に中止されてしまうようである。
 折角公立学校が旧態を墨守して産業構造変化に容易に追従せず、また就業人口比率の変動をも考慮することなくその場を糊塗するにすぎない教育方針に鋭い批判を投げかけたにもかかわらず、その運営が永続しないために、その批判の声が立消えになって公立学校の教育が依然として保守的で陳腐な内容を維持させる結果に終っているのは残念なことに思われる。
 前報で述べたように企業内教育が中止されたのは教育方針や方法が不適切であったというのではなくすべてその経済的基盤が弱かったことによるものであり、公立学校がその経済的背景がめぐまれていてその教育が永続するとしても現在のような工業教育を継続することがわが国工業の振興には余り寄与しないのではないかと思われる。
 現在の工業高等学校の入学者状況、卒業生の就職状況からみても工業高等学校、工業高等専門学校及び大学を通じての工業教育のあり方について検討すべき時期にきていると思われる。
 現在専修学校が花ざかりといわれているがこれは必ずしも理工系のみではないにしても公立の工業教育について再考すべき材料を提供している証左の一つであろう。
 コーリン・クラークの予測によれば今後わが国の第2次産業就業人口は漸減すると考えられるが、昭和30年代後半に倍増した工業高等学校の定員をそのまま維持するのが妥当であるか、また設置学科の内容が適切であるかの検討は緊要のものと思われるが、臨時教育審議会では殆ど議題に上っていないことはわが国の工業教育とくに初級技術者養成の教育の改善の必要はないと考えているとしか受けとれないのである。
 国家百年の計は教育にあるといわれている。工業国家としてしか自立する道のないわが国において工業教育についての根本的検討がなされねばならない時期にきていると思う。
 物好きな企業にその企業内技術者養成を委せておけばよいというのではなく公教育としての工業教育のあり方について方針を明示すべきであろう。
 本稿を草するに当り有益なご助言を賜わり、また貴重な資料をご提供していただいた元丸善石油学院院長代理重松武臣氏、丸善石油株式会社(現コスモ石油株式会社)総務課主査小林勝氏、丸善石油化学株式会社大阪営業所課長鈴木邦宏氏に感謝の意を表したい。
参考文献
(1) 近畿大学:教育研究紀要 第9号:昭和61年。
(2) 近畿大学:職業科学 第8号:昭和60年。
(3) 近畿大学:職業科学 第9号:昭和61年。

(昭和61年9月30日受理)

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2002.6.20 up