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丸善も再出発


石油化学・輸出を柱に
仕事のときがいちばんたのしい

 いかなる因果か、私は仕事をしているときがいちばんたのしい。よく親切な人が「たまには静養なり保養なりをしたらどうか」とすすねてくれるが、とんでもない。2、3日も世間から遠のいていたら、おそらくバカみたいになってしまうだろう。
 知らないことはなんでも人に聞け、というのが私の主義である。私は社長だが、社長というものは社内のことはなんでも知っていなければならない。だから私は、受付のことは受付の係に、エレベーターのことはエレベーター・ガールに、掃除のことは掃除婦のひとに聞くことにしている。金もうけのチャンピオンだけでは、社長はつとまらない。
 私はいま丸善石油の社長として、今後の経営に二本の柱を立てている。一つは石油化学工業の拡充強化であり、いま一つは石油製品の対外輸出である。
 昭和33年、わが社は下津工場で石油化学工業に一番ヤリの名乗りをあげ、ついで松山工場で芳香族の研究をすすめてきた。そしてこれらの成果を千葉県の五井に集中すべく、すでに川をはさんだ北岸の23万5千坪(約75万5千5百平方メートル)は昨年末埋め立て完了、ここに近代的精製工場のほか、一部に石油化学工場を建設して新日本窒素と提携する。
 また南岸にはこの4月から25万坪(約82万5千平方メートル)の埋め立て工事を開始することになっておりこれに宇部興産、電気化学、日本曹達のいわゆる丸善グループのコンビナートがまとまれば、敷地だけでも90万坪(約297万平方メートル)を擁する石油化学工業の一台殿堂たることが約束されている。
 ひと口にいうと、石油会社は売買でもうけている。したがって販売担当者は少しでも高く売ろうと努力し、仕入れ担当者は原油をできるだけ安く買おうと苦心する。だが、売買の利益にはおのずから限度がある。そこで、大きな利潤をあげるためには、ここにどうしてもすぐれた政策が必要になってくる。
 それで私は、ガソリンをもう千円高く売れとか、原油をもう5百円安く買えなんていうことは絶対に言わない。そんなことで得る利益なんて、タカがしれている。そこでバーター取り引きの問題とか、ジェット機燃料油の在日米空軍への納入などによって、割り当て以外の外貨を獲得し、それで原油を買うようにできないものかと考えた。はたしてこの努力は、もののみごとに実を結んだ。
 はじめは、アメリカ軍に日本の製品を入れるなんてそんなバカなことができるもんかといわれたが、われわれはついにその難事業に成功した。しかも私の夢はさらに一段と前進してアメリカにおける有力石油会社の一つであるユニオン社との契約が締結して、軽質油の対米輸出にも成功した。さらに輸出の伸長に力を尽くしたいとおもっている。
 日本の石油業とともに、丸善石油もいよいよ今日を起点として勇躍再出発する。紙数の関係などもあって、ここで十分意をつくしえなかったことをおわびしたい。そして最後にもう一度、
 “人生に夢をもて。若人よ、開拓者たれ”
を結びのことばとしてこの稿をおわることにする。(おわり)

〔あすから株式会社日本製鋼所社長石塚粂蔵氏〕

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