(その7)
和田完二さん
昭和三十年代に八年間、私の勤めた丸善石油高等工学院の設立者である、社長の和田完二さんについて記してみよう。
和田さんは、社長に就任すると、社憲を制定して内外に公表したが、
その第一章、われわれは常に正道に立って社業を運営する。会社の発展は社会の福祉、世界の進運に寄与し得るものでなければならない。
第二章、経営者と従業員は、ともに会社の根幹である。互いに相より相たすけ、和の心をもって一致協力する。(十章あるが以下略)
和田さんはこうした社憲を身を以って実践、躬行してゆかれたのである。
和田さんは、社長になる何年か前に、脳溢血で倒れ、入院、手術、回復はしたものの左半身不随となり、それからは奥さんのまき子さんが、杖代りとなり、半身となって、何時もそばに寄り添っておられた。
和田さんの社員に接する態度は、実に穏やかで暖かく、愛情に溢れていた。
先ず社員の定年制を廃止された。
健康で、働く意欲があれば、退職しなくてもよろしいというわけである。社員の誕生日には、社員と家族宛に、誕生祝いが贈られてきた。
社業はぐんぐんと伸び、その秀れた経営手腕と、あたたかい人柄が魅 力を呼び、多くの知名の士が和田さんの許へ集まってくるようになった。
思い浮かぶままに、お名前を挙げてみると、中曽根康弘、石原慎太郎、今東光、水野成夫、升田幸三、山本玄峰、古賀政男、志保見道雲、佐藤正忠、山田耕筰、大木惇夫、石丸梧平その他、多士さいさい。
昭和三十二年、和田さんは大阪府下箕面の地に、丸善石油高等工学院と呼ぶ社立学校を創立された。
当時、高校への進学率は六十パーセント、残り四十パーセントの中から人材を選んで高校に準じた教育を実施、卒業後は本人の希望で会社への入社、その他自由という学校である。全国から選抜し、給費制、全寮制である。
和田さんは、この学校の生徒を、まるで自分の子供のように大切に、愛情をもって接しておられた。それは正に「親ごころ」であった。
校庭に碑を建て、
「人生に夢を持て、若人よ開拓者たれ」と刻み、生徒にプレゼント。
或るときは、帝塚山の本邸に、生徒二百人を呼んで楽しい一時を過す。
或るときは、外遊のさいに、生徒への土産を二百箇購入し、生徒に配る。
社長として全国の支店巡りをなされたさい、その地に卒業生がいるときは、必ず呼んでご自分の身辺に侍らせていた。
和田さんの後半生は、会社の利益の一部を社会に還元するという考え方の先駆者であった。
和田完二さん
(学院だより創刊号)