(その6)

山田耕筰氏

 先月号で私の勤めていた学校の校歌を作詞した、大木惇夫あつお氏のことを書いたが、その作曲をした山田耕筰氏について、記しておこう。

 昭和三十二年四月、学校ができて間もなく山田氏は大木氏と同日付で、学校の顧問に就任され、度々学校におみえになった。
 氏はおみえになるとき、いつも車椅子でこられ、奥さんがその押し役であった。足を傷められていたのであろう。
 特に入学式、卒業式には、必ずおみえになり、新しく入ってくる生徒を迎え、去ってゆく生徒を送ってくださったのである。その点実に律儀な方であった。
 厳しい表情のなかに、何となく優しさの漂っている感じがあったのを思い出す。
 学校ができた翌年、学校の前の広場に「宇宙の宮」と呼ぶ礼拝堂が建立された。
 学校の創立者である社長の夫人が建立されたもので、上部が礼拝堂、その下部が坐禅堂、礼拝堂には三百人、坐禅堂には二百人収容力があり、毎月の例祭、年一回の大祭には全国から参拝者があった。
 さっそく「宇宙の宮」建立こんりゅうの歌ができた。作詞、大木惇夫、作曲、山田耕筰である。

  一、いとも小さき 人の子われら
    生かされしこのよろこびを
    感謝して築きまつる
    この宮ぞ 宇宙の宮
    うけさせたまえ 最高尊者
  二、いともか弱き 人の子われら
    限りなきこのみ救いを
    感謝して築きまつる
    この宮ぞ 宇宙の宮
    うけさせたまえ 最高尊者
  三、略

 この歌の「最高尊者」という言葉は、フランス語から、今東光先生が翻訳された言葉であると聞いている。
 この宗教的施設は、学校の教育と結びつき教職員、生徒も例祭に参列、坐禅堂で坐禅を組むようになった。そのさいは、白い上衣をまとったものである。
 あるとき、わたしは山田耕筰氏に色紙を差し出し、「先生、何か書いていただけませんか」とお願いした。すると氏は、すぐ筆をとって、
     「未 知 生
      安 知 死    耕筰」
と書いてくださったのである。生涯を通して、タクトをふりつづけたその手で、お書きくださったこの言葉は、あとで調べてみると「論語・先進第十一」の
 「季路きろ鬼神きしんつかえんことをう。子のたまわく、いまひとつかうることあたわず、いずくんぞつかえん。わく、えてう。のたまわく、
 いませいらず、いずくんぞらん」からきており、山田耕筰氏晩年の心境をうかがうことができる。        
以上


山田耕筰氏
(学院だより第2号)